2日目その2 ヒヴァ:イチャン・カラ
ヒヴァは曇り空ながらタシケントより暑く、ブルゾンを脱いで春秋ニットとジーンズになる。私は極度の寒がりなのでTシャツの人も見かける気温です。宿の周りは小道が多い。地図を見ているのに迷いながら歩き、メインゲートの西の門(オタ・ダルヴァザ門)にたどりつく。
3日使えるイチャン・カラ施設の共通入場券を購入する。入れる施設が少ない安いチケットもあったが、私は面倒くさくて全カバーのです。15万スム(1900円)。現地の物価からすると高いものの、正価なのでね。レシートタイプでQRコードが印字されていて、各施設の入り口でタッチして入る。反応しにくいときもあった。
真ん中のがタッチゲート。西門の両側には土産物屋があって、扉には彫刻がびっしり。
西門から東門を貫く道がメイン・ストリートになっている。
土産物屋がずーっと軒を連ねており、手作り工芸品大好きな私は脳味噌が麻痺する。見たことないものばっかりだ。写真を撮るだけで楽しい。どれもほしい。すごくほしい。ミナレットやモスクも素晴らしいが、持って帰れる旅の思い出がほしい。したがって、この後ずっとお土産への目移りと歴史的建築物が交互に出てきます。
名物のタイル。鍋敷きに使ってるって感想読みましたね。羊メイド羊がかわいすぎる。写真撮ったけれど買っていない。
ユニークな模様の陶器類。重いし破損が怖いので、ヒヴァでは買うまいぞと決める。スザニもブハラのほうが良い商品があると聞いていたので、ここではスルー。どこの店も商品は外に並べる方式です。
しかし、真っ先に目に入るのは巨大な建造物たちだ。左がカルタ・ミナルで右がムハンマド・アミン・ハン・マドラサ。
ここからそれぞれ建物や歴史の解説を書いていきますが、ガイドブックやネットからつまみぐいした情報ですのでご了承ください。間違っている場合もあると思います。
カルタ・ミナルは未完成のミナレットでカルタ(短い)という名前になっている。ガイドブックでは未完成の理由にブレがありました。1852年着工で、現在の高さは26メートル。
ミナレットとマドラサはセットで作られたので、マドラサからの橋が唯一の入り口。現在は入れない。
これは夕暮れに撮った。ウズベキスタンといえば青色の建築物だが、カルタ・ミナルのタイルは日本語なら縹色が近い。茶色いレンガや土壁と調和している。
つながっているムハンマド・アミン・ハン・マドラサの入り口へ。名前通りムハンマド・アミンが作ったマドラサだ。ハンは王という意味。中央アジア最大級の神学校だったとか。
現在はオリエント・スター・ヒヴァという名前のホテルになっている。最初はここに泊まりたかったのだけど、団体客優先なのかなかなか空室が出ず、料金も高くなっていたのでやめました。宿泊客でなくても入場はできる。
入ってすぐの回廊。天井と壁がぜんぶ彫刻でくらくらする。シャンデリアもきれいだ…!! ウズベキスタンの建物は、全体がダイナミックで素敵、細部は精巧で素敵と私とカメラは右往左往させられる。
中庭から。めっちゃ広い。
各部屋の扉。当時の学生の部屋がそのまま客室になっている。全部で125部屋もの部屋があったとか。
イスラム教の指導者のお墓だが、現役のモスクも兼ねているようで、早朝に来たらお祈りの人々が入っていった。このときも室内の観光客はお祈りをしていて、写真を撮れる雰囲気ではなかった。
観光用ラクダのカーチャ。乗ってる人は見かけなかったな。
17世紀に立てられたクフナ・アルク。古い宮殿という意味で、新しい宮殿(タシュ・ハウリ宮殿)ができたのでこう呼ばれるようになった。
内部のサマー・モスク。修復されたせいか木の柱への彫刻はなし。柱の奥の中心のくぼみがメッカを示すミフラーブらしい。オープンな構造でも、ミフラーブがあればモスクになるそうです。
左のお土産物屋で、ラクダの毛で編まれた靴下を買いました。たしか10000スムと言われて9000スム(120円)に値切った。ウズベキスタンはどの都市でも歴史的建築物に間借りするかたちでお土産屋があって、こちらの感覚ではかなり驚いた。
壁に挟まれた道を通って……
アイヴァンに出る。テラスという意味で、王の執政の場でした。けっこうな恐怖政治だったそうで、この前の広場では犯罪人の処刑や兵士のパレードが行われていた。城内ではその様子が展示されていた。
しかし、壁も天井も柱も美しい。
王の部屋では修復が行われてました。やっぱり手描きなのか! 気が遠くなる作業だ…。
この宮殿から見張り台に上がれるのだけど、このときは階段が見つけられずに翌日のぼりました。順路や矢印が示されてないので、目についた道をとりあえず通るしかない。あらかじめGoogle Mapに場所とメモをしてきたものの、電波が悪くて読み込めず、コピーしてきた『地球の歩き方』が頼りだった。施設も有名どころから小さいのまで多いので、行った場所にいちいち印をつけてた。このブログでは、特に好きなののみ載せている。
マドラサは内部の写真がないので、撮りたいものがなかったんでしょう。両方とも最後のハン(王)が1910年に建てた。ミナレットは、ヒヴァで一番高くて44.5メートルある。これにのぼります。
事前情報通り、階段が狭い&急&暗いです。危ない。カメラを斜めがけにして、両手で段をつかんで上っていく。この旅ではいくつものミナレットに上るのだが、ここが一番しんどかった。
てっぺんの見張り台からヒヴァを見渡す。何度も同じことを言うが、青色と砂色の調和が独特で美しい。滑り落ちないように地上まで戻る。
続いて、ジュマ・モスクとミナレットへ。中央アジアでもっとも古いモスクのひとつで、金曜日の寺院という意味です。10世紀に建てられ現在のかたちになったのは18世紀末で~と絶対に見たい施設なのだが、入り口が地味でなかなかわからなかった。警官(ツーリスト・ポリス)に「どこ?」て尋ねて苦笑されながら教えられる。外観写真もないので、いきなり内部です。
多柱式モスクというタイプで、広い空間に木の柱が213本ある。礼拝のときは信者がびっしり整列したのだろう。ここまで木の彫刻の印象深さを書いてきたが、砂漠の真ん中だからこそ貴重な木をふんだんに使って宮殿やモスクを飾ったのだと思う。パリのノートルダム寺院が火災で全焼したところだったので、火災報知器を見つけてなんとなく安心する。
一番古い柱は10世紀のものだが、目印がないしどれも凝っているので見つけられない。奥の丸屋根の建物は賽銭入れだそうです。
メッカの方向、キブラを示すミフラーブは簡素だ。奥の移動式階段は、説教壇でミンバルと呼ぶ。これも木製ですね。
天井はブロックごとにデザインされている。天窓が2箇所あって光と影のコントラストが神秘的だった。
のぼるぞ、ミナレット!!
高さは42メートルとさっきのイスラム・ホジャ・ミナレットよりマシだが、狭い&急&暗いは一緒です。 フラッシュ炊いてるので写真では明るい。途中の明り取りの窓からは、カルタ・ミナルが見えた。
てっぺんの展望台には、男性数人の先客がいた。ひとりが窓の外(たぶんメッカの方角)に向かってコーランを唱えていた。他の男性に「座って」とジェスチャーされたので、私もしゃがみこむ。朗々とした深みのある声は唱えるというより歌う調子で、敬虔さよりも親愛が伝わってくる。神の存在が身近なんだろう。最後に両手をお椀のかたちにして、と促されて倣う。この仕草の名前は帰ってから調べたけどわからなかった。自然な信仰の有り様が見られて貴重な体験だった。「どこから来たの?」「日本?」「良い国だね」「ウズベキスタンもだよ」的な会話を交わしてお別れする。
展望台からの光景。さっきのぼっていたイスラム・ホジャ・ミナレット。
これはカルタ・ミナル側。天と地の境目が一直線だ。
また注意しながら地上に下りる。2本のミナレットのぼりで、この夜から太ももの筋肉痛がやってくる。歩くのはわりと耐えられるけど、上下運動には耐性がない。疲れたしお腹も空いたので、昼食にする。時刻は14時です。
ホテル・マリカ・ヘイヴァクに併設されたレストランに入る。入ると言っても、レストランのほとんどは庭でのオープンスタイルです。写真撮ってないですが! 日陰に入りたかったので、天井はなにかで覆われてあったはずだ。
ラグマンとグリーンティー、デザートにバクラバ。2万3千スム(300円)。
ラグマンはうどんのような白い平麺で、日本人が食べやすいウズベキスタン料理だと言われている。スープもトマト味でおいしかった。切り口が並々の野菜はサラダでも見かけたので、こういうスライサーが流行ってるんだと思う。バクラバはギリシャのお菓子で、ここのは材料の混ぜ方がざっくりしていて家庭料理っぽさが強かった。
しかし日本人、見かけない。団体客はおろか個人客もぜんぜんいないように見える。いくら日本でウズベキスタン人気が高まっているとはいえ、現地での割合は英語話者やロシア系が圧倒的なんだろう。そのわりに、土産物屋などの店員さんは「こんにちは」と話しかけてくる。私は日本人だと見破られやすいほうだが、自分にアメリカ人とロシア人の見分けがつくかと言われたら絶対に無理だ。ロシア語とウズベキスタン語の区別もつかない。店員さんみんなすごいよ。英語も私より話せる人が多いから価格交渉も英語です。この旅で一番使ったウズベキスタン語は「ヤポーニャ(日本人)」だった。
レストランを出てタシュ・ハウリ宮殿へ。宮殿の新しいほうです。1830~1838年に建てられて、この日一番の見どころになった。外観写真がないので、いきなり内部です。
南北にわかれていて、ここは南の宮殿。アイヴァン(テラス)が連なったこの中庭で執政が行われた。
おそらく修復だが、タイルも天井装飾も細かくて豪華。 イスラム教は偶像崇拝を禁じているし、生命を生み出すことは神の御業だから動物などは描けない。模様は幾何学の組み合わせで、神の栄光の永遠を示すために繰り返しになっている。植物模様はぎりぎりのラインだったのかな。この制約プラス青と白だけのみで異なる図柄がこんなに生み出せるものか。
小道の奥にも中庭がある。
アイヴァンの装飾は、壁も天井も柱もすべて違う。権力者ならではだなー。
回廊には歴史的な解説もあるのだけど、英語を読むのが面倒くさくてすっ飛ばしである。木の柱の彫刻を見てください!
北の宮殿は、王の住まいとハレムになっている。
寝室が再現されている。宮殿名の「タシュ・ハウリ」は「石の庭」という意味で、粘土を使わずに作られたそうだ。
ハレムです。周囲の2階が部屋になっているが、王は中庭に建てたこのユルタにいるのが好きだったらしい。王よ、やりたい放題だな。
この時代は客人が来たら、ユルタを作って泊まるものだったそうで、この写真の左下にも丸い土台が作られている。
奥に行くについれて観光客が減ってついに私ひとりになる。この美と歴史を独り占めしてる! わたしが王だ!! とテンションバカ上がりだった。そのうえ、こういう小さな入口がいっぱいあって、さながらダンジョンである。迷いながらも道を見つけては入り、写真を撮り、中庭の豪華さを楽しみ、の繰り返しだった。
静かです。ヒヴァは他の観光地と比べて観光客が少なかった。営業的にはまずいだろうが、見てる側としては最高で、ブハラやサマルカンドでは「ヒヴァが恋しい~」となっていた。
宮殿を出て、さらに東に向かうと東門(パルヴァン・ダルヴァザ)がある。
この門の広場には19世紀後半まで巨大な奴隷市場があって、旅人などが捕まえられては売られてきた。その中にはロシア人もいて、奴隷解放はロシアが侵略する口実になり、侵略とともに奴隷市場も終わった。現在は大きなバザールをやっているのだけど、夕方のこの時間帯は何もなかった。
時刻は16時半ごろ。いったん宿に戻って、部屋に案内してもらって休憩する。ドルとスムと日本円の感覚がつかめないのが不安で不安で、iPadでGoogleスプレッドシートを作って使った金額を入力して、財布の中身と合わせてました。よほど不安だったのか、家計簿もつけたことないのに旅の最後まで入力が続けられました。ホテル代を除いた平均使用額は1日5000円ほどで、おみやげ買わなかったら2000円で過ごせると思う。
というわけで写真残ってるもののみですが、お土産紹介です。最初なので、値段の加減がつかめない。「日本より安いから」を買う理由にしてはいけない。相場を知って安く買うには、色んな店で値段聞きまくるしかないように思う。
アクセサリーはピアスからネックレスからバングルから指輪まで、どこの都市でもたくさんあった。日本の感覚ではデザインが派手かな。
左の写真のピアスは、ラピスラズリとターコイズ。見ているだけで店員さんが説明とともに手のひらに商品を乗せてくる。この店の商品はシンプルだったので、1個15ドルを2個20万スム(2,600円)に値切った。右のラピスラズリのピアスはブハラで購入。石の上の銀のボール細工が細かいからと言われつつも、10万スム(1,300円)にしてもらった。
ターコイズはウズベキスタン産、ラピスラズリは世界的な産地であるアフガニスタンから輸入しているそうです。ムーンストーンやタイガーアイなどもあった。個人的には、こういう場所で本物偽物を疑うのはバカバカしいと思う。金属部分は銀だそうで私はアレルギーにはなってないです。
マドラサなどのタイルに使われている青色も、産地が近いのだからラピスラズリを使った絵の具がメインだったんじゃないでしょうか。
本屋立ち寄るの大好きなので、しっぽを振って入った。ウズベキスタンの巨大な料理本などを見せてもらう。
購入したのは、『星の王子さま』。自分の知っている本が他の国風になっているのを見るのが好きなんですよ。表紙イラストはウズベキスタンのイラストレーター作らしくリアル調だが、挿絵はサン=テグジュペリのままだ。「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ」4,500スム(50円)。
旧ソ連時代のバッジ。こういうボードに貼られている。
最初に購入したのが、左のソ連らしさ全開のピンバッジ。13万スム(1700円)。この店では1個しか売ってなくて貴重に見えたのと、おばさんの「あなたが(他の観光客と比べて)小さいから安くしているのよ」という売り文句が面白くて買ってしまった。しかし、あとで1個1万スム(130円)の店を見つけて完全にボラれたことを知る。値段交渉は店の腕の見せどころだと思うし不当に安く買おうとは思わないのだけど、ボラれたとわかると面白体験も面白くなくなっちゃうのだ。しょぼん。
真ん中のクマと右のレーニンは、その1個1万スムの店で購入した。
ここは種類ごとに、スクラップブックみたいなのに留めてあった。クマのは左の写真の紋章のようなピンバッジのページにあって、「これどういう意味?」と尋ねたら「街のシンボル」だそうです。ヒヴァやサマルカンドなども出してもらったが、ソ連といえばクマなので! 帰って調べてみたら、ロシアの西端のノヴゴロドという街のピンバッジだった。現在の市旗にもクマと魚があしらわれていて、859は街ができた年だ。ロシアでもっとも古い街で世界遺産登録されている。作った人も、ピンバッジがオセアニア大陸を横断するとは思わなかっただろうな。
右のレーニンバッジは、レーニンばっかりのページで発見した。髪型が特徴的でわかりやすいね! スターリンは見かけなかったな。後日、日本のロシア物産コーナーでもこういうピンバッジを発見。1個1000円だった。
宿での休憩を終えて、この日最後の観光と夕食に行く。緯度が高くて日の入りは19時半ごろ。夕焼けがきれいに撮れる高い場所に行こうと、イチャン・カラの城壁を歩くことにする。
城壁のはしっこがスロープになっている。私は2箇所見つけられたけど、他にもあるのかも。
けっこうな坂なので、下りるときは滑り落ちないかひやひやした。この旅では、階段も斜面でも「のぼるより下りるほうが難しい」を自分に言い聞かせ続けた。
土壁が黄金色に溶けていく。銃眼が等間隔に穿たれている。
空は薄曇りです。しかし、このあとは天気に恵まれず、これがウズベキスタンで見た最初で最後の夕暮れだった。
北の門(バフチャ・ダルヴァザ)に着く。
ヒヴァ紹介写真でめっちゃ見る光景。側防塔の丸みがやわらかい。
夕食は、屋上があるTerrassa Cafe & Restaurantで摂る。
これは昼間の写真。屋上が人気らしく、宿でもレストランでも建築風景を見かけた。
ミンチ肉をクレープ状の生地で挟んだもの。料理名は忘れました。だいたいの英語メニューには、中身について解説か写真が載っている。ジンジャーレモネードもおいしかった。あわせて4万2千スム(530円)。
城内が一部ライトアップされていたが、写真が撮れるほどではなかった。
宿に帰り、シャワーを浴びる。砂だらけで風が強いので、肌や服のあちこちに砂がひっついている感覚が拭えない。早めに就寝する。25000歩。